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健康によい食べ物について(持論)

私はヤングリヴィングのアロマオイルの愛用者です。 だからといって、健康のための食事や運動に徹底的にこだわる、ヘルスコンシャスというわけではありません。 とういうのも、ダイエットジプシーだった頃に、いろんな食餌療法を調べまくったところ、ダイエット研究家は意外と短命だったと知ったからなんです。 それについては、過去の投稿( ダイエットを止めたらやせた )を見ていただくとして。 ダイエットにはまる以前も、実は「健康食」について疑問を抱くきっかけがありました。 高校の同級生に湖池屋のポテトチップスが大好きな子がいまして。 彼女は毎日欠かさず一袋食べていたそうです。 ところが、修学旅行か合宿か何かで一口も食べられない日が一週間続いたら、 塩分欠乏症で倒れ救急車で運ばれてしまった、とのこと。 彼女曰く、「湖池屋のポテトチップスに使われてる塩でなくてはならず」 「それ以外の塩分ではまったく自分の体に合わない」。 市販のポテトチップスなんてジャンクフードだから、毎日一袋空けるって体に悪いに決まってる!と思い込んでる人には信じられないでしょうね。 でも、本人の体が証明しているわけなので、彼女にとっては、それが健康によいのです。 逆に、同級生の中に「玄米食」の子もいました。彼女のお母さまがなんでも徹底した方で、お弁当も玄米。それなのに!彼女はひどいアートピーでした。 子供の頃から母が親しくしていた自然食品店(当時は「オーガニック」という言葉は日本にはなじみがなかった)のオーナーも、まだ50代にしてガンで亡くなってしまったんですね。「自然食」の実践者だったはずなのに。 結果、「そうか、健康というのは食事がすべてではないのだな」と気づいたわけです。 私の母も自然食にこだわっていたことがありました。 それこそお弁当も玄米という時期が。 しかし、彼女の場合は、次第にこだわるのに疲れてしまったよう。 なので、途中から自然食とそうでない食の半々、になりました。 母曰く、「毒も必要」。 私も同感です。 人間の体は、体にあわない毒が入ったら、体に吸収させず、外に出す力があるはずなのです。 でも、毒のないものばかり食べていたら、毒に対する免疫力がどんどんなくなってしまう。 もちろん、大病をしてお医者さんからの指示で食事法

真実を解き明かす映画『トランボ』と『ハドソン川の奇跡』

~ 称賛と非難はセット。それでも信念を貫いた実在の人物 ~ (※本記事は、2016年にある翻訳会社に寄稿したものです。HPが閉鎖となったため、このブログに投稿しました) 有名人のスキャンダルや世間を騒がす大事件…は、メディアではさまざまな取り上げられ方をする。とはいえ、その情報は真実なのか?批判の対象になった人間は本当に責められるべきなのか?視聴者や読者は、ニュースの裏側にある真実を知ろうとはしない。またそれをリアルタイムでは明らかにできない場合もある。 そして取り上げられた本人たちは、真実が語られる日がくるまで苦悩するものなのだ。 時代こそ違えど、「ハリウッドから最も嫌われた男」 『トランボ』 も 『ハドソン川の奇跡』 のサレンバーガー機長もそんな人物なのだ。 第二次大戦後のアメリカでは共産党追放運動が始まっていた。いわゆる「赤狩り」である。その波は、映画業界にも押し寄せてきた。「ハリウッドからも共産党員の追放を!」と日々尋問が行われるようになる。 売れっ子脚本家だったトランボ(ブライアン・クラストン)もその標的となり、ついに投獄されてしまう。釈放後も、友人の名や偽名を使ってハリウッドだけではなく B 級映画にも書いた。 そして、どの映画も大ヒット!アカデミー賞も 2 度も受賞する。そのうちのひとつが、あの『ローマの休日』なのだ。「共産党員のトランボは雇うな」という圧力がかかる中、「作品は必ずヒットするから何があろうと彼に書いてほしい」という人物もおり、その一人がカーク・ダグラス(ディーン・オゴーマン)。 彼がトランボに書かせた作品は、のちに映画史に残ることになる。 本人自身は、批難を浴びても作品は大絶賛されるという、天国と地獄がつねに一体の人生を、しばらくのあいだ強いられたといえる。 彼の信念が、友人や家族をも巻き込んでたくさんの苦難をもたらしたのにも関わらず、トランボは屈しなかった。赤狩りが始まってから 20 年近くのときを経て、先のカーク・ダグラスと協力した作品にて本名で復活を果たすのだった。 さて時間は飛んで、 2009 年。ニューヨークのラガーディア空港を離陸した US1549 は、その直後にバードストライクに遭い、両エンジンを焼失する。 その

映画『アンナとアントワーヌ~愛の前奏曲(プレリュード)~』

~ ルルーシュ監督&フランシス・レイが贈る、現代版『男と女』 ~   (※本記事は、2016年にある翻訳会社に寄稿したものです。HPが閉鎖となったため、このブログに投稿しました)                               フランス人お気に入りの恋愛映画として、必ず挙がるのが 『男と女』 。 クロード・ルルーシュ監督の詩情あふれる映像と、フランシス・レイが生み出す美しい旋律は、いまだに多くの男女の心をつかんで離しません。 その最強コンビが手がけた最新作 『アンナとアントワーヌ ~ 愛の前奏曲(プレリュード)~』 は、まさに現代版『男と女』。 混沌としたインドを舞台に、壮大なラブストーリーが繰り広げられます。 映画音楽家のアントワーヌは、録音のためにインドを訪れ、フランス大使の妻アンナと出会います。 価値観も感性も、性格的にもまったく正反対の二人。 スピリチュアルな思想に傾倒するアンナ(エルザ・ジルベルスタイン)と、実体験を通してでしか現実を捉えられないアントワーヌ(ジャン・デュジャルダン)。 当然のことながら、会話をしてもお互いに相容れません。 それにもかかわらず、どんどん惹かれあっていくのです。 そしてとうとう、アントワーヌには恋人がいながら、「子供を授かりたい」というアンナの巡礼に同行することに。 インドには「 聖母アンマ 」と呼ばれる女性がおり、「抱きしめてもらうと、願いがかなう」と信じられているそうで、世界中から訪れる人があとをたたないのだとか。アンナの巡礼も、彼女に会うのが目的です。 ここで特筆すべきは、映画の中で二人が彼女に対面するシーンは、フィクションではないこと。映像の中でマンナに抱きしめられているほかの巡礼者たちも、実際に彼女に会うためにやってきていた人々で、この場面はドキュメンタリータッチに描かれています。 物語としては先が読めるものの、キャリアチェンジ、不倫、シングルマザー…と 現代女性が抱える悩みやスピリチュアルな要素が盛り込まれ、とても 75 歳の監督が撮ったとは思えないほど斬新な内容なのです。 女性からは多くの共感を呼ぶはず。特に主人公二人を含め、登場人物たちのしゃれた会話は さすが、フランス映画! 日本

電車置き忘れバッグを28分で取り戻す!~嘘のようなホントの話~

(Facebookノート2018年8月14日の記事より) 自宅に戻った数分後に、電車にバッグを置き忘れたことに気づき、急いで石川町駅へ。 「20分ほど前、ここで降りたときに荷物を置き忘れまして」 駅員A「どこ行きでしたか?」 「東京駅発16:20だったことははっきり覚えていますが、 磯子だったか大船だったか…」 駅員B「そうすると、ここは16:26着ですか?」 「おそらく」 駅員A「荷物はどのような?」 「えーと、半月型で両ファスナー開閉式で」 駅員A「色は」 「オレンジと、このペンのようなネイビーブルーの手裏剣(千鳥格子)柄」 駅員A「手裏剣型。何が入ってましたか」 「服とスマホの充電器、モバイル型WIFIモデムに、麦わら帽」 駅員B「お客さんが乗っていた電車は、磯子行きでした。これが車庫に入ってしまう便なら、磯子で保管となります」 「その場合は取りに行きます(途中大船でお蕎麦を食べよ)」 駅員A「今調べましたら、忘れ物の届け出はないですね」 駅員B「この電車は磯子から折り返し運転で戻ってきます!」 「何分にここに着きますか?」 駅員B「17:54です」 (忘れ物なのに、刑事ドラマみたいな会話だな) 時計を見上げると、17:52。 (わー、あと2分。なんというタイミング!) 駅員A「お客様、そろそろここに着きますので、ご一緒に」 と、降りたのと反対側のホームへ。 「ちょうどあちら側の待合室のあたりで降りました」 駅員A「それでは、私は3号車を見ますので、お客様は4号車を見てください」 会話が終わると同時に入ってきた電車。棚だけを目で追い続ける私…(バッターのボールを追うキャッチャーみたいだな。あっ、あれだ!) 車両が止まり、ドアが開いた瞬間にさっと乗り込み、座っていた男性の頭上から荷物を降ろし、ドアが閉まる直前にまたホームへ。一瞬、男性の驚く顔が見え。 10mほど先の駅員さんに手を振り 「ありました!ありがとうございます。」 駅員A「よかったです」 踵を返しながら一礼した相手は、女性の車掌さん。

腰の痛み=行動の制限?レインドロップでわかったこと

父の介護で疲れ気味の母に、昨夜「レインドロップ」を。使ったのはこちらの4種。 「レインドロップ」とは、背骨の周辺にアロマオイルを雨垂れのように垂らし、脊椎にオイルを刷り込むことで、溜まった疲れや感情を癒す方法。 カナダのインディアン ラコタ族に伝わる施術法と言われています。 使うアロマオイルはほぼ決まっていますが、慣れてきたら、そのときの体調にあわせて変えてます。 毎日ヘルパーさんたちの力を借りていても、やはり夜寝る時間でも気が抜けないようなので、ラベンダーを多めに使いました。 オイルを刷り込んでいるときに、腰の辺りがひんやりしていて冷たく感じました。 血流が滞っているのだな、と。そのときにパッと映像が浮かびました。 それは山道でした。もしかしたら、気分転換に出かけたくても「ヘルパーさんがいないGW中、父の傍にいなければ」という思いがいっぱいで、外出できないのかな?と思いました。 母にそれを伝え、「私がいる間、日帰り温泉にでも行って来たら?」と提案してみました。そのときは「うーん」と答えただけだったのですが。 施術を続けていくうちに、腰の辺りもじんわり温かくなってきたので、そのまま眠ってもらうことにしました。 翌朝起きると、母は普段より早く目覚めていて元気に動きまわってきました。 「あれから、腰上から肩甲骨までカッと熱くなって疲れがとれた」 「起きたとき腰が痛かったけど、今日は出かけるぞと思ったら、腰の痛みを感じなくなった」とのこと。 「父を看るため傍を離れてはいけない」という思い込みがほどけ、 ぐっすり眠れて、肩こりも抜けたようで。 今日は颯爽とに出かけて行きました。 私の不在中は、仲良くしている整体師に診てもらっていたようですが。 腰の痛みだけは引かなかったようです。 それは、「父を看るため傍を離れてはいけない」という思い込みが、腰の痛みとなり、行きたいところに自分を行かせないようにしていたからではないか、と思いました。 この思い込みを手放さない限り、何度でもその思い込みが腰を痛くさせていただろう、と。整体師のところに通っていても、この思い込みが残っていたので、腰は痛いままだったのだろう、と思いました。もちろん、疲れからきていたことも考えられますが。 その人に不必要な思い込みは、痛みとなって体に現れるのだな。 本人に「この思い

「無意識のうちに繰り返す心のパターン」をどうにかしなくちゃ、始まらない

この前の 私が考えるスピリチュアルとは? で、霊視や予知、占いはスピリチュアルではない、と書きました。 何故、そう思うのか?といいますと。 私は学生時代に授業で、社会人になってからは個人で心理学を学んでいたことがありました。当時はまだ、フロイトやユングをもとにした考え方が多く、「西洋の心理学は日本人には当てはまらないなあ」と思い、学ぶのをやめました。 それでも、自己啓発系やニューエイジ系から派生した心理学の本を読んだりは、していました。 「自分を変えたい」という思いが強かったんですね。 案の条、読めば読むほど、考えれば考えるほど、悩みや問題が大きくなってしまい、袋小路に迷い込んでしまいました。 そこから、心の問題をどうこうするのをやめ、いわゆる「ヒーラー」と呼ばれる人たちのところに通ったり、アロマオイルを使ってみたり、考えずに「一瞬で」自分を変えられる方法を探り始めたわけです。 確かに、いっときは、ネガティブな感情とおさらばできたり、疲れが癒されたような気分にはなるのですが、また気づくといつものパターンに陥っている自分がいました。 それは、仕事のことだったり、人間関係だったり、いろいろです。 何度も何度も同じパターンを繰り返している自分がいる。。。 こういうふうにまた同じ問題で悩み始めそうになると、「開運」とか「引き寄せ」系のセミナーに行って気を紛らせたくなるでしょう。 (このようなセミナーを提供する人も、近頃は随分と増えたような気がします。) あるいは、「自分のやりたいこと」に集中して、悩みや問題にフォーカスしない方法もあります。 私も、これをやってみました。この方法なら、心が折れそうになっても、自分のテンションを保つことはできました。しばらくの間は。でも、やっぱり、出てくるんですよねぇ。 「自分が無意識のうちに繰り返す心のパターン」が。 今まで私たちが頼ってきた「ヒーラー」たちは、この部分には触れようとしませんでした。「天使がこう言っている」とか「何か月後かに運気や心情が変わる」とか。 そんなんじゃ、もう駄目だろう。 開運するにせよ、自分の生きたいように生きるにせよ、自分が創りたい現実を創るにせよ、まず「自分が無意識のうちに繰り返す心のパターン」、これをどうにかするのは必須なんだ!と

私が考えるスピリチュアルとは?

このブログは、「スピリチュアル」をテーマに、私自身が体験した不思議な話、日常の中での小さな奇跡、ヤングリヴイングのアロマオイルの話を綴っています。 とはいえ、私は、「スピリチュアル」の定義を曖昧にしたままこのブログを書いていたことに気づきました。 私は、霊能力や霊視や、予知や占いを「スピリチュアル」だとは思っていません。 そこで言われた通りのことが起きる、つまり「当たる」ことが「スピリチュアル」だとも思っていません。 私自身、いわゆる「ヒーラー」と呼ばれる人たちのところへも行ったことがあります。 カウンセリングやセッションを受けているときは、心が癒えたつもりでも、時間が経つにつれ、また新たな悩みや問題が沸き起こってきて、またそういう人たちのところへ行きたくなるのですね。 やがて気づきました。 これでは、永遠に自分の心の力に頼らずそういった人たちに依存してしまう、と。 さらに悪いことには、それをしている側も自分たちに依存させるように仕向け、コントロールしようとするのだな、と。 そうしてさらに自分の悩みが増えていき。。。という負のループにはまってしまいそうになる自分に。 これは、占いでも同じでしょう。私自身、占いのゴーストライターのようなことをしていたので、より実感しています。 悩みやコンプレックスが多い人、現実を努力なしに一瞬で変えたいという人は、 特に「占い」「ヒーリング」ジプシーになってしまうのではないかと思います。 だから「これを読めば一瞬で運気が変わります」などといったキャッチフレーズに振り回され、書く側も悩みを抱える人のそのような心理を巧みに利用してビジネスをするわけです。 でもでもでも、初めは人の手を借りたとしても、自分の心の力を自分自身で使えるようにならなければ、本当の「スピリチュアル」とは言えないのでは? つまり、私の考える「スピリチュアル」とは、「自分の心の力を自分自身で使えるようになること」なのです。

歌への愛は、それぞれ

今年の1月に、フランス語の語学学校で開催された朗読会に参加しました。 「日本の歌謡曲やPOPSの詞の素晴らしさを、外国人の方に伝えられたらいいな」と思い、 日本語のオリジナルの歌詞と英訳版を朗読することにしました。 英訳を詠むにあたっては、やはりオリジナルのかたちを変えてしまうので、 事前に承諾を得るべく、 各楽曲の権利者や音楽出版社に朗読会概要と英訳を送るなど、やり取りをしました。 そのなかで気づいたのは、著作権についての考え方は権利者や出版社によって だいぶ違ってくるということ。 「ネットに掲載しなければOKです。広まるのは嬉しいのでどうぞご自由に」 「英訳を見せてください」 「英訳OKですが、直訳でお願いします。凝ったものはNG」 「日本語詞の良さからかけ離れてしまうので、やめてください」 ‥等。 詠み手にとっては、全曲承諾を得たいところでしょう。 でも、今振り返ってみると、全曲承諾を得るのがベストではないのだなぁ、と感じています。 相手のことを考えてないからです。 相手とは、ここでいうと権利者や音楽出版社になります。 アーティストが手がけた楽曲を守りたいから存在するわけです。 守る=歌への愛、です。 たとえ背景にビジネスがあったとしても、やっぱり歌への愛なんだ、と思います。 上に書いた、権利者と音楽出版社からの私への回答は、 それぞれの「歌への愛」のかたちなんですね。 「断られ」れば、詠み手の私側からすれば「残念」。 でも、相手からすれば、「歌を守った」。 「断る」側からすれば、それは「歌への愛」からきている。 自分が歌を守る立場だったら、「嫌」だと思えば「断り」ます。 「嫌」という気持ちも裏返せば「愛」からきている。 そう考えれば、断られたからといって落ち込む必要がどこにあるでしょう? これは何も、歌に限ったことではないですね。 例えば、「歌」を「商談」に置き換えても同じだと思います。

あなたのせいではない

「私は人からよく当たられる」と思っていました。 あるいは、「自分が何かこの人に失礼なことをしたのか」と自問していました。 いつもは丁寧な人が、あるときつっけんどんにリモコンを渡してきました。 「はい、やって」とこれだけです。 何をやるのか、何をしてほしいのか、この言葉ではわかりませんね。 ある状況になると、毎回この人はこういう態度をとってくるので、 「私に当たっているとしても、違うのかも」と思い始めました。 先日、彼女はポロっと言いました。 「設備の不具合で、いつもきちんと機材のセッティングができなくて不安」と。 ああ、当たっているように思えたのは、当たっていたのではなく、 この人は不安だったから、ああいう態度と口調になっていたのだな、 と気づきました。 昔いた職場でも、誰にでも当たり散らしているような女性がいました。 とはいえ、あるきっかけで話す機会があったので、 よくよく聞いてみると その人は、「成長したくて仕方がない」でも「すぐには環境を変えられない」から ジレンマでイライラしていたのだと気づきました。 人は、自分が不安になっていたり、成長したいという欲求が高まっているとき、 他人に対しては無意識のうちにつっけんどんな態度になったり、八つ当たりしているような口調になってしまうようです。 だから、「当たられた」と思えるときは、相手はそれだけ自分に心を開いて気持ちを見せてくれているんだ。自分はこの人にとって、心開ける相手なんだ、と思うようにしています。 誰にでもそういう気持ちを見せられるわけではないので。 まとめると、相手が不機嫌に見えても、自分に八つ当たりしているようでも、それは相手の事情であって、あなたのせいではないし、それによってあなた自身の気持ちまで下げる必要はないですよ、 というお話でした。

言えばいいのに

前職でのこと。自分でもできることを、私にばかり任せてくる男性がいました。 疑問でした。やることがたくさんありすぎて、細かい作業は私に投げればいいや、と思っているのだろうか?彼の頼み方や口調を観察していると、そういう風にしか思えませんでした。 その男性の仕事ぶりについて、他の人たちも頭を抱えていました。 何もかもが雑。投げやりな仕事の仕方…と周囲の人も私と同じ気持ちだったようです。 女性上司から指摘されても「どこ吹く風」で、自分の考え方を主張し続け、最後は突拍子もないことを言って、その話を終わらせていました。 彼が休みの日に、彼が担当していた取引先から「今日まで納品」だと連絡が入りました。 女性上司は慌てて、メールで連絡。「納品急ぐということなので、早く連絡してあげて」 すると、彼からはこんな返事が。 「こっちだって子育てしながらやってるの。その話は明日出社してからにして」。 CCで彼からの返信をほぼ同時に読んだほかのメンバーも唖然。 まるでとんちんかん。「どういうこと?」とみんなで首をかしげました。 「いつものことだよ、ね」とその件では上司も諦め… 数日後、始業時間に彼からメールを受信。そこには 「子供を病院に連れて行くので、遅れます」と書かれていました。 それで、私ははたと気づいたわけです。彼の仕事の仕方が雑だった理由が。 共働きで、彼は奥さんから育児を任されてるのだな、と。 だから、会社に来たら「どれだけ余計な仕事をほかの人に任せ、育児のためのエネルギーを残しておくか」考えてるのだな、と。 彼にとっては、育児のほうに比重がかかっているのだな、と。 もちろん、だからといって、会社の仕事を雑にやっていいわけではないですが。 きっと、周囲が彼に注意していたとき、彼が心の中で思っていたのは 「こっちは育児もしてるんだから、そんなにやってられない」でしょうね。 でも、彼の中で思っていたとしても、周囲にそれを口に出して伝えていなかったら、 周囲だって理解できない。 周囲も彼が育児を任されているなんて知らないから、「どうして〇〇してくれない? 」「これぐらいやって当たり前じゃない」と、彼に余計な期待をかけ、指摘を超えて批判するだけになってしまう。 「言えばいいのに!」と私は思いました。

現実化が早くなっている?

今年に入ってから、現実化するのが早くなっている気がします。 ここでいうのは、「目標を立て、そのための行動を重ねて達成」する願いではないです。 例えば、こういうことです(以下①~③すべて実際に起きました)。 ① 「尾道で飲んだミャンマー産のコーヒーが美味しかったから、取り寄せようかな?」と 思っていると。 職場の先輩から「タイラクさん、コーヒー好き?ミャンマーのコーヒーもらったんだけど?」と声をかけられ、そのものズバリをいただく。しかも、それは1kgはあるだろう大容量。 ② 朝目が覚めた瞬間に「今日はお花が欲しい。仕事が終わったらお花を買って帰ろう」と思う。 職場に行くと、「昨日のイベントでホールに〇〇大使館が飾ったお花がたくさんあるので、好きならご自由に」と声をかけられる。普通のお花やさんでは売られていないような、大輪の花ばかり。 ③ 「タイ料理が食べたいな。都内でどこか美味しいところないかな」と、googleで検索する。いったん忘れて、翌日の昼休憩の時間に。。。 「今、会議してた××局が頼んだタイ屋台料理のお弁当が余っているので、タイラクさんよかったら」と、またまた声をかけられる。A3用紙と同じ面積位のお弁当箱がどどーんと目の前に。 タイミングよく食べたかったし、ついでに自分で調べなくてもお店の名前を知ることができたので、望み以上。 昨年ぐらいまでだったら、望んでから現実化するまで1週間以上はタイムラグがあったと思います。体感として。 まあ、こういうふうに人からいただかなくても、自分で行動して手に入れることもできますが。 でもでもでも、自分で行動してってなると、 上の①の場合、オンラインショップで買おうとすれば届くまでやっぱり1週間はかかりますよね。購入手続き前に、会員登録などが必要になるし。 ②の場合なら、会社帰りに立ち寄る分、歩く距離が長くなる。 ③なら、検索しつづけてよさそうなお店が見つかっても、今すぐ行くわけにはいかず。昼休憩は時間が限られているし、退社後にしてもその時に気力が残っているかどうかも「?」 そう考えると、望んでいったん忘れてニュートラルにしていると、どこからルートが開けて他人の手を通して自分の元に届くことがある。そのときは、図ったかのようにベストタイミング。その上、自分が望んでいた

裸の女優たち~#MeTooに思うこと

                      このブログは、スピリチュアルがテーマです。でも、ときには耳の痛いことも書きたいと思います。(私自身、 幼い頃に性的嫌がらせ を受けたからでもあります。私と同じような経験をした女性はいるはず。でも、言えないんでしょう。) 2017年秋、イタリア人モデルの告発によって、ハリウッドの大物プロデューサーによるセクハラが暴露される事件がありました。 告発した女性以外にも、過去に被害にあった女優たちは「#metoo」でツイートするよう呼びかけられ、次々と彼の悪事が明らかになっていきました。 そして、年明けすぐに、セクハラ反対運動と被害女性を支援する団体 『TIME’S UP』 が女優たちにより立ち上げられました。 上記大物プロデューサーによって手がけられていた映画のなかには、私自身好きだった作品も多く、それだけでもショックだったのです。 それに加えて、 サルマ・ハエックの告白 もさらに衝撃的でした。 映画を撮る人にはもちろん、「表現の自由」があるので、映画を撮ったことない女性の私に意見する権利はないかもしれません。また、議論することも望んでませんが。 日本映画にも裸身をさらすシーンが多く、そういうシーンでは、女性の私は目をそらしたくなります。「女優達による裸身や、過激な濡れ場シーンは作品にとって必然性があるから」という記事を多く目にしますし、女優達も納得の上でそのようなシーンに「果敢に挑んだ」と、結ばれていることがほとんどです。それによって、その女優自身も「一皮むけ、演技力もアップした」とまで、よく書かれてます。 しかし、観る側には必然性は感じません。物語に集中できません。 何より、濡れ場を演じることと演技力アップは何の関連性も感じません。 例えば、私の大好きなシャーリー・マクレーン。彼女は、ハリウッド黄金時代から2000年代の今も活躍し続けている大女優ですが、過激な濡れ場など演じたことはありません。 ですが、演技力は素晴らしいです。 裸身の女優が観たい、濡れ場が観たいという男性側の本音を「必然性」という言葉にすり替えているだけなのでは?と女性側の私には思えてなりません。 演じる側は監督の言う通りをすべて受け入れなければならないのでしょうか? 女優自身も納得できなけれ

やめる勇気~フェリーニの『8 1/2』~

<2019年3月17日のFacebook投稿から>※いつものブログとはトーンが違います※ 引きこもりの今日は、フェリーニの 『8 1/2』 を鑑賞。(ハリウッドのミュージカル映画『NINE』はこのリメイク) これは、創作に行き詰った映画監督の自己開示の話だと思った。映画制作はもう進めることになっているのに、8カ月もアイディアが思い浮かばない主人公グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)。思い悩んだグイドは、何人かのガールフレンドのところにいったり、来てもらったりしているんだけど、多分奥さんに相談できないからなんだと思った。 とはいえ、スランプでも撮影を進めなくては!と制作陣から叱咤され、無理やり撮影現場に連れていかれ、記者会見もその場でしなければならない羽目になる。 グイドはギリギリまで追い詰められるものの、本人は嘘は言いたくないので、映画作るの止めます!ってことにするんです。損をするのを覚悟したんですね。そしたら逆に、「力が湧いてきた」と。だから、最後はお祭りのシーンになる。 他の人はどう思ったんだろうと思って調べたら、「幻想と現実が交錯して」とか、「グイドは記者会見中に自殺した」とか、「わけがわからない」というコメントが多くてびっくりした。私は違うと思った。「人生はお祭りだ、さあ一緒に過ごそう」っていうセリフの一部を切り取って日本人向けのキャッチコピーにしてるから、この言葉に惑わされて理解不能になってるんじゃないかな。 クリエイターは、いつもアイディアにあふれてるわけではない。それでも、いったん”名監督”と呼ばれるようになってしまったら、アイディアがあるなしに関わらずスポンサーや配給会社からはハッパかけられてしまう。一つの作品に、大勢が関わり大きなお金が動くと、なおのこと「できません!」って言えなくなる。だから、表向きは無理をしてでも笑顔で。でも心では自分自身に嘘をつくことになるので、悩む。それに耐えられなくなった人が、ドラッグやアルコールに溺れていってしまうんだと。 でも、この映画の主人公は、そこに逃げ道を作らず(先延ばしにしたけど)、「できないものはできないんだ!自分の心に嘘はつけない」って腹をくくったってことなんだと思う。 「人生はお祭りだ」っていうのは、「人

私の暗黒時代~学生時代編②~

私の暗黒時代~学生時代編①~ で、大学入学引きこもりになった、と書きました。今日はその続きです。 (引きこもりでも、楽しいことはあったにはあったのですが、ネガティブな側面から自己開示したいので、あえてこのタイトルです) 引きこもりになった理由は、次の目標が持てなくなったことと、強い劣等感にさいなまれるようになったからです(学内での金銭感覚の差からくるものではないです)。 この劣等感は、高校時代からあったのですが、たまりにたまって爆発したのが、この時期になってからでした。10代になると、ほとんどの人が反抗期を迎え、それによって自己が確立していくのですが、私にはこの反抗期がありませんでした。 そのせいでもあると思います。 この劣等感と、反抗期がなかったことについては、さらにもっとさかのぼります。 私の両親は教育者でした。中学時代は、必ずテストの結果を親(特に母親)に見せるのが ならわしでした。 90点以上採れても褒められることはほとんどなく、80点代だと手が飛んできました。 (母自身、子供の頃、実母からそうされてきたようで、私に対して無意識のうちにこの行動に出ていました) 勉強の合間に好きなこと、例えばビーズアクセサリー作りにはまっていると、取り上げられ「そんな実益にならないことに夢中になるな。勉強の方が大事!」とこんな感じです。 反抗しようものなら、「親に養ってもらっている分際で、親に反抗するとは何事!養われているうちは、子供に人権なんてない。よそでは反抗期が認められても、我が家では認めない」両親ともにこの考え方でした。 高校受験の間も、唯一の心の支えは部活動(演劇部)で、これだけは母親の手が飛んでこようが絶対に続けていました。 まあ毎日のように、「あんたはいったいいつ部活をやめるの?そんなんじゃ勉強の時間が取れないでしょ」と言われつづけました。 高校受験間際まで、父親の怒鳴り込みもありました。寝ていると、部屋のドアが開き、仁王立ちの父の影がドーンと現れるわけです。 (高校教師だった父は、自分の娘の内申点がどれくらいで受験先の高校に提出されるのか、把握できたので、余計に心配だったようです。 私は学区外の学校を希望していたため、内申点がその分多くなくてはいけなかったのですが、父から受験後に聴いたところによると、とても足り

未だ癒えない性的トラウマ

                     何年か前にすでにFacebookで書いたことがあるのですが、今度はここに書いてみようと思います。これを読んだら、男性も女性も気分が悪くなり、私のことを嫌いになるかもしれません。あらかじめ断っておきます。だからと言って世のすべての男性を敵に回し、糾弾したり、論議を交わしたり、あるいはどこかの団体でその方面の運動にかかわることが目的ではありません。 私は、突然、大勢の男の子たちに取り囲まれ、気づくと着ていた服をすべて脱がされ、裸で校庭に引きずり回された経験があります。幼稚園生のときです。年少か年長のときかは覚えてません。あまりにも突然のことで、声も出せず、抵抗もできませんでした。 担任の先生が走り込んできて、「何をしているの。みんな教室に戻りなさい」と男の子たちに言うと、私に「早く服を着なさい」とだけ言い残し、去っていきました。自分の服をどうやって着なおして、その日どうやって残りの一日を過ごし、家に帰ったのかは全く記憶にありません。 この衝撃的な事件の後、その男の子たちを特に叱ることもなく、私をいたわるような声をかけてもらった記憶もないです。 ただただ、悲しくて、孤独で、誰も私の味方がいないのだと思いました。誰も私を助けてくれないんだと。そのあとにくやしさがこみあげてきて、「男の子なんか大嫌い」と強く思いました。言葉に変換して思ってはないけれど、「男の子は好きにならないし、結婚もしない」と気持ちの上で決めてしまったみたいです。 (この事件の前後にも、隣家の3人兄弟(10歳位年上だったと思う)に陰に連れ込まれてキスをさたり、年下の男の子に自宅に連れ込まれてまた服を脱がされかけたり。小学校に上がるか上がらないかの頃に、本当に嫌いになりました。) 親に話せたのは、30代後半すぎてからなので、わりと最近です。 「なぜ結婚したがらないのか」とくどくど言う母に、「結婚したくないというより、そもそも男性を好きになれない!」と答え、その理由としてこの事件のことを打ち明けたのでした。(だからと言って、同性愛者ではありません) あまりにも幼すぎて、やった本人たちももう覚えてないだろうし、その男の子たちも大人になって家族をもっている頃だろうと。だから一人一人たずねて、「謝れ」とは言えないだろう、とそんな話を母とし

私の暗黒時代~学生時代編①~

このブログのメインテーマは、日常に起きた小さな奇跡体験と、ヤングリヴィング社のアロマオイルについてです。全体的に良い出来事しか書いていませんが、たまにはネガティブなことについても書いてみようと思います。 「フェリス女学院大学卒」というプロフィールを見て、みなさんはどんなイメージを抱くでしょうか?私の入学当時の世間一般のイメージはこうです。 ___________________ 社長令嬢しか入れない(みんな大金持ち) アルバイトはしたことがない(しなくてもいい) 挨拶は「ごきげんよう」 ジーンズを履いている子はいない 合コンしたい女子大として必ず名があがる どこに行ってもモテて、ちゃほやされる 人気アナウンサーの出身大 ___________________ なので、恐らく、私に対するみなさんのイメージも「学生でも優雅な暮らしを送った苦労知らずのお嬢様」というところでしょう。 とんでもないです!社長令嬢ばかりではないです、私のように親が教師など中流(失礼!)出身の子もたくさんいましたし。 実は私、この大学、2浪して入りました。 都内のマンションではなく、二世帯住宅をリフォームしたお家の一室に下宿してました。 しかも!受験生活が長引いたせいで、入学したとたん、鬱になり引きこもりになってしまいました。半一人暮らしニート状態です。 私は第二次ベビーブームの世代で、とにかく幼少期から競争を強いられてきました。 大学受験時も、人気大学は倍率50なんてザラ。 だから、当時は浪人生もたくさんいましたね。1浪なんて当たり前。 そんなときだったので、現役で受からなくても。。という声もたくさんあり、その言葉に甘えて、高校時代は勉強せずに遊びまくっていたので、案の条、、、だったんです。 勉強が大嫌いだったので、「大学には行かない」と両親に告げていたものの、「社会へのパスポートだと思って、我慢して大学ぐらいは行きなさい」と教育者ならではの理屈で説教されましたね。当時は押しが強くなかった私は、嫌々ながらも「家を出る手段として」大学受験はすることにしたんです。 1浪目は地元の予備校に通い(センター試験導入も、確か同じ頃じゃなかったかな)、2浪目は都内の英語専門の予備校に通ってました。このときから実家を出て、西武新宿線沿線の駅近

2/24(日)13:00~初のアロマ講座を開催します

このブログでヤングリヴィングのアロマオイルについて書いてきましたが、PCやスマホ画面、インターネットを通しては読者の方に実際の香りを届けることができません。そこで、このイベントを企画してみました。初の試みです。首都圏・横浜近郊にお住いの方はぜひ。先週の土曜に告知したばかりですので、イベント当日まで受け付けます。 詳細は下記の通りです。 イベント名:『疑い深い人のためのヤングリヴィングアロマ講座』 対象: 「YL=ヤングリヴィングって怪しいのではないの?」「使いたいけど、何から使えばいいのかわからない」「買う前にどんな感じか実際に使ってみたい」という方。 まずは生活の中に取り入れやすいアロマオイルと使い方をご紹介。使いたいものがあれば、どれか1種サンプル(約7回分)をお渡しします 使用オイル: <シングルオイル> オレンジ、ペパーミント、ラベンダー、レモン <ブレンドオイル> ピューリフィケーション 日時:2019年2月24日(日)13:00~17:00のうち2時間 ※13:00~15:00 / 15:00~17:00の2回を考えてます。確定次第こちらでお知らせします。 参加費:2,500円(当日現金でのお支払い) 定員:7名様限定 場所: 横浜山手西洋館イギリス館 2F集会室 http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/british-house/ ※イギリス館は港の見える丘公園内にあります。元町中華街駅6番出口のエレベーターで地上のアメリカ山公園に出てから、徒歩約5~6分です。 お申込み:平楽のFBメッセンジャーまたは下記メアドまで rauramitsuki71@gmail.com