2017年秋、イタリア人モデルの告発によって、ハリウッドの大物プロデューサーによるセクハラが暴露される事件がありました。
告発した女性以外にも、過去に被害にあった女優たちは「#metoo」でツイートするよう呼びかけられ、次々と彼の悪事が明らかになっていきました。
そして、年明けすぐに、セクハラ反対運動と被害女性を支援する団体『TIME’S UP』が女優たちにより立ち上げられました。
上記大物プロデューサーによって手がけられていた映画のなかには、私自身好きだった作品も多く、それだけでもショックだったのです。
それに加えて、サルマ・ハエックの告白もさらに衝撃的でした。
映画を撮る人にはもちろん、「表現の自由」があるので、映画を撮ったことない女性の私に意見する権利はないかもしれません。また、議論することも望んでませんが。
日本映画にも裸身をさらすシーンが多く、そういうシーンでは、女性の私は目をそらしたくなります。「女優達による裸身や、過激な濡れ場シーンは作品にとって必然性があるから」という記事を多く目にしますし、女優達も納得の上でそのようなシーンに「果敢に挑んだ」と、結ばれていることがほとんどです。それによって、その女優自身も「一皮むけ、演技力もアップした」とまで、よく書かれてます。
しかし、観る側には必然性は感じません。物語に集中できません。
何より、濡れ場を演じることと演技力アップは何の関連性も感じません。
例えば、私の大好きなシャーリー・マクレーン。彼女は、ハリウッド黄金時代から2000年代の今も活躍し続けている大女優ですが、過激な濡れ場など演じたことはありません。
ですが、演技力は素晴らしいです。
裸身の女優が観たい、濡れ場が観たいという男性側の本音を「必然性」という言葉にすり替えているだけなのでは?と女性側の私には思えてなりません。
演じる側は監督の言う通りをすべて受け入れなければならないのでしょうか?
女優自身も納得できなければ、NOと言っていいのではないでしょうか?
監督には「表現の自由」がありますが、女優自身にも「脱がない」権利という人権はあるはずです。
世の中の半分は女性です。その女性たちもそういうシーンを好んで観たい、と思っているのでしょうか?
映画監督の多くは、男性です。ですから、今まで世に出されてきた映画も、男性の目を通した女性像にすぎないと思います。
もっと世の中に女性の映画監督が出て、女性の目線で描く女性像を映画を通して見せてほしいです。
(NYTimesへのサルマのコメントを、友人のペネロペ・クルスがInstagramでシェアしてました)
ハリウッドのこの事件を受け、女優たちもこのようなシーンを強要されそうになったら断ろうという流れになってきているなか、
日本はまだ「果敢に脱いだ、挑んだ」といった褒め言葉が使われ、称賛されているという現実。世界的にみても、この考え方は遅れている、ということに早く女優たちも監督たちも気づいてほしいです。
女性誌の映画紹介コーナーでさえ、同じような表現で褒めているから驚き。「映画には濡れ場はあって当たり前」といつのまにか、女性たちも思わされていて、そういうシーンを目にしたときに、自分自身の不快感までも感じ取れなくなっていないでしょうか?
撮る側、特に男性監督が「女優はセクシーに撮りたい」と思ったとき、彼の頭の中は観客=男性になってしまっている。「観客の中には女性もいる」ことを忘れています。女性はセクシーな女優よりも、共感でき、自分たちを投影させ、感情移入できる女優を求めています。深層では(だから、人気が続く女優は、ある年齢から女性たちの共感を集め支持された人だけです)。
上記のペネロペがシェアしたサルマ・ハエックのコメントを読むと、
彼女自身も「映画業界は、女性観客がどんな物語を観たいと思い、私たちに語ってほしいと思っているのか、理解しようとする努力をやめてしまっている」と言っています。
観る女性側も、自分の心に問いかけてほしいです。「私は本当に濡れ場が観たいのか?」
「映画はそういうものだから、仕方がない」と、社会からマインドコントロールされていないか?小さな不快感を心のどこかに追いやっていないか?と。
当たり前すぎて、「こういうのは嫌だ」と声に出すことすら、面倒に思っていないか?
もちろん、そういう映画を観たくないなら、観なければいい、んです。
そうなると、私はほとんどの映画を観なくなってしまいますね。
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