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健康によい食べ物について(持論)

私はヤングリヴィングのアロマオイルの愛用者です。 だからといって、健康のための食事や運動に徹底的にこだわる、ヘルスコンシャスというわけではありません。 とういうのも、ダイエットジプシーだった頃に、いろんな食餌療法を調べまくったところ、ダイエット研究家は意外と短命だったと知ったからなんです。 それについては、過去の投稿( ダイエットを止めたらやせた )を見ていただくとして。 ダイエットにはまる以前も、実は「健康食」について疑問を抱くきっかけがありました。 高校の同級生に湖池屋のポテトチップスが大好きな子がいまして。 彼女は毎日欠かさず一袋食べていたそうです。 ところが、修学旅行か合宿か何かで一口も食べられない日が一週間続いたら、 塩分欠乏症で倒れ救急車で運ばれてしまった、とのこと。 彼女曰く、「湖池屋のポテトチップスに使われてる塩でなくてはならず」 「それ以外の塩分ではまったく自分の体に合わない」。 市販のポテトチップスなんてジャンクフードだから、毎日一袋空けるって体に悪いに決まってる!と思い込んでる人には信じられないでしょうね。 でも、本人の体が証明しているわけなので、彼女にとっては、それが健康によいのです。 逆に、同級生の中に「玄米食」の子もいました。彼女のお母さまがなんでも徹底した方で、お弁当も玄米。それなのに!彼女はひどいアートピーでした。 子供の頃から母が親しくしていた自然食品店(当時は「オーガニック」という言葉は日本にはなじみがなかった)のオーナーも、まだ50代にしてガンで亡くなってしまったんですね。「自然食」の実践者だったはずなのに。 結果、「そうか、健康というのは食事がすべてではないのだな」と気づいたわけです。 私の母も自然食にこだわっていたことがありました。 それこそお弁当も玄米という時期が。 しかし、彼女の場合は、次第にこだわるのに疲れてしまったよう。 なので、途中から自然食とそうでない食の半々、になりました。 母曰く、「毒も必要」。 私も同感です。 人間の体は、体にあわない毒が入ったら、体に吸収させず、外に出す力があるはずなのです。 でも、毒のないものばかり食べていたら、毒に対する免疫力がどんどんなくなってしまう。 もちろん、大病をしてお医者さんからの指示で食事法
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真実を解き明かす映画『トランボ』と『ハドソン川の奇跡』

~ 称賛と非難はセット。それでも信念を貫いた実在の人物 ~ (※本記事は、2016年にある翻訳会社に寄稿したものです。HPが閉鎖となったため、このブログに投稿しました) 有名人のスキャンダルや世間を騒がす大事件…は、メディアではさまざまな取り上げられ方をする。とはいえ、その情報は真実なのか?批判の対象になった人間は本当に責められるべきなのか?視聴者や読者は、ニュースの裏側にある真実を知ろうとはしない。またそれをリアルタイムでは明らかにできない場合もある。 そして取り上げられた本人たちは、真実が語られる日がくるまで苦悩するものなのだ。 時代こそ違えど、「ハリウッドから最も嫌われた男」 『トランボ』 も 『ハドソン川の奇跡』 のサレンバーガー機長もそんな人物なのだ。 第二次大戦後のアメリカでは共産党追放運動が始まっていた。いわゆる「赤狩り」である。その波は、映画業界にも押し寄せてきた。「ハリウッドからも共産党員の追放を!」と日々尋問が行われるようになる。 売れっ子脚本家だったトランボ(ブライアン・クラストン)もその標的となり、ついに投獄されてしまう。釈放後も、友人の名や偽名を使ってハリウッドだけではなく B 級映画にも書いた。 そして、どの映画も大ヒット!アカデミー賞も 2 度も受賞する。そのうちのひとつが、あの『ローマの休日』なのだ。「共産党員のトランボは雇うな」という圧力がかかる中、「作品は必ずヒットするから何があろうと彼に書いてほしい」という人物もおり、その一人がカーク・ダグラス(ディーン・オゴーマン)。 彼がトランボに書かせた作品は、のちに映画史に残ることになる。 本人自身は、批難を浴びても作品は大絶賛されるという、天国と地獄がつねに一体の人生を、しばらくのあいだ強いられたといえる。 彼の信念が、友人や家族をも巻き込んでたくさんの苦難をもたらしたのにも関わらず、トランボは屈しなかった。赤狩りが始まってから 20 年近くのときを経て、先のカーク・ダグラスと協力した作品にて本名で復活を果たすのだった。 さて時間は飛んで、 2009 年。ニューヨークのラガーディア空港を離陸した US1549 は、その直後にバードストライクに遭い、両エンジンを焼失する。 その

映画『アンナとアントワーヌ~愛の前奏曲(プレリュード)~』

~ ルルーシュ監督&フランシス・レイが贈る、現代版『男と女』 ~   (※本記事は、2016年にある翻訳会社に寄稿したものです。HPが閉鎖となったため、このブログに投稿しました)                               フランス人お気に入りの恋愛映画として、必ず挙がるのが 『男と女』 。 クロード・ルルーシュ監督の詩情あふれる映像と、フランシス・レイが生み出す美しい旋律は、いまだに多くの男女の心をつかんで離しません。 その最強コンビが手がけた最新作 『アンナとアントワーヌ ~ 愛の前奏曲(プレリュード)~』 は、まさに現代版『男と女』。 混沌としたインドを舞台に、壮大なラブストーリーが繰り広げられます。 映画音楽家のアントワーヌは、録音のためにインドを訪れ、フランス大使の妻アンナと出会います。 価値観も感性も、性格的にもまったく正反対の二人。 スピリチュアルな思想に傾倒するアンナ(エルザ・ジルベルスタイン)と、実体験を通してでしか現実を捉えられないアントワーヌ(ジャン・デュジャルダン)。 当然のことながら、会話をしてもお互いに相容れません。 それにもかかわらず、どんどん惹かれあっていくのです。 そしてとうとう、アントワーヌには恋人がいながら、「子供を授かりたい」というアンナの巡礼に同行することに。 インドには「 聖母アンマ 」と呼ばれる女性がおり、「抱きしめてもらうと、願いがかなう」と信じられているそうで、世界中から訪れる人があとをたたないのだとか。アンナの巡礼も、彼女に会うのが目的です。 ここで特筆すべきは、映画の中で二人が彼女に対面するシーンは、フィクションではないこと。映像の中でマンナに抱きしめられているほかの巡礼者たちも、実際に彼女に会うためにやってきていた人々で、この場面はドキュメンタリータッチに描かれています。 物語としては先が読めるものの、キャリアチェンジ、不倫、シングルマザー…と 現代女性が抱える悩みやスピリチュアルな要素が盛り込まれ、とても 75 歳の監督が撮ったとは思えないほど斬新な内容なのです。 女性からは多くの共感を呼ぶはず。特に主人公二人を含め、登場人物たちのしゃれた会話は さすが、フランス映画! 日本

電車置き忘れバッグを28分で取り戻す!~嘘のようなホントの話~

(Facebookノート2018年8月14日の記事より) 自宅に戻った数分後に、電車にバッグを置き忘れたことに気づき、急いで石川町駅へ。 「20分ほど前、ここで降りたときに荷物を置き忘れまして」 駅員A「どこ行きでしたか?」 「東京駅発16:20だったことははっきり覚えていますが、 磯子だったか大船だったか…」 駅員B「そうすると、ここは16:26着ですか?」 「おそらく」 駅員A「荷物はどのような?」 「えーと、半月型で両ファスナー開閉式で」 駅員A「色は」 「オレンジと、このペンのようなネイビーブルーの手裏剣(千鳥格子)柄」 駅員A「手裏剣型。何が入ってましたか」 「服とスマホの充電器、モバイル型WIFIモデムに、麦わら帽」 駅員B「お客さんが乗っていた電車は、磯子行きでした。これが車庫に入ってしまう便なら、磯子で保管となります」 「その場合は取りに行きます(途中大船でお蕎麦を食べよ)」 駅員A「今調べましたら、忘れ物の届け出はないですね」 駅員B「この電車は磯子から折り返し運転で戻ってきます!」 「何分にここに着きますか?」 駅員B「17:54です」 (忘れ物なのに、刑事ドラマみたいな会話だな) 時計を見上げると、17:52。 (わー、あと2分。なんというタイミング!) 駅員A「お客様、そろそろここに着きますので、ご一緒に」 と、降りたのと反対側のホームへ。 「ちょうどあちら側の待合室のあたりで降りました」 駅員A「それでは、私は3号車を見ますので、お客様は4号車を見てください」 会話が終わると同時に入ってきた電車。棚だけを目で追い続ける私…(バッターのボールを追うキャッチャーみたいだな。あっ、あれだ!) 車両が止まり、ドアが開いた瞬間にさっと乗り込み、座っていた男性の頭上から荷物を降ろし、ドアが閉まる直前にまたホームへ。一瞬、男性の驚く顔が見え。 10mほど先の駅員さんに手を振り 「ありました!ありがとうございます。」 駅員A「よかったです」 踵を返しながら一礼した相手は、女性の車掌さん。

腰の痛み=行動の制限?レインドロップでわかったこと

父の介護で疲れ気味の母に、昨夜「レインドロップ」を。使ったのはこちらの4種。 「レインドロップ」とは、背骨の周辺にアロマオイルを雨垂れのように垂らし、脊椎にオイルを刷り込むことで、溜まった疲れや感情を癒す方法。 カナダのインディアン ラコタ族に伝わる施術法と言われています。 使うアロマオイルはほぼ決まっていますが、慣れてきたら、そのときの体調にあわせて変えてます。 毎日ヘルパーさんたちの力を借りていても、やはり夜寝る時間でも気が抜けないようなので、ラベンダーを多めに使いました。 オイルを刷り込んでいるときに、腰の辺りがひんやりしていて冷たく感じました。 血流が滞っているのだな、と。そのときにパッと映像が浮かびました。 それは山道でした。もしかしたら、気分転換に出かけたくても「ヘルパーさんがいないGW中、父の傍にいなければ」という思いがいっぱいで、外出できないのかな?と思いました。 母にそれを伝え、「私がいる間、日帰り温泉にでも行って来たら?」と提案してみました。そのときは「うーん」と答えただけだったのですが。 施術を続けていくうちに、腰の辺りもじんわり温かくなってきたので、そのまま眠ってもらうことにしました。 翌朝起きると、母は普段より早く目覚めていて元気に動きまわってきました。 「あれから、腰上から肩甲骨までカッと熱くなって疲れがとれた」 「起きたとき腰が痛かったけど、今日は出かけるぞと思ったら、腰の痛みを感じなくなった」とのこと。 「父を看るため傍を離れてはいけない」という思い込みがほどけ、 ぐっすり眠れて、肩こりも抜けたようで。 今日は颯爽とに出かけて行きました。 私の不在中は、仲良くしている整体師に診てもらっていたようですが。 腰の痛みだけは引かなかったようです。 それは、「父を看るため傍を離れてはいけない」という思い込みが、腰の痛みとなり、行きたいところに自分を行かせないようにしていたからではないか、と思いました。 この思い込みを手放さない限り、何度でもその思い込みが腰を痛くさせていただろう、と。整体師のところに通っていても、この思い込みが残っていたので、腰は痛いままだったのだろう、と思いました。もちろん、疲れからきていたことも考えられますが。 その人に不必要な思い込みは、痛みとなって体に現れるのだな。 本人に「この思い

「無意識のうちに繰り返す心のパターン」をどうにかしなくちゃ、始まらない

この前の 私が考えるスピリチュアルとは? で、霊視や予知、占いはスピリチュアルではない、と書きました。 何故、そう思うのか?といいますと。 私は学生時代に授業で、社会人になってからは個人で心理学を学んでいたことがありました。当時はまだ、フロイトやユングをもとにした考え方が多く、「西洋の心理学は日本人には当てはまらないなあ」と思い、学ぶのをやめました。 それでも、自己啓発系やニューエイジ系から派生した心理学の本を読んだりは、していました。 「自分を変えたい」という思いが強かったんですね。 案の条、読めば読むほど、考えれば考えるほど、悩みや問題が大きくなってしまい、袋小路に迷い込んでしまいました。 そこから、心の問題をどうこうするのをやめ、いわゆる「ヒーラー」と呼ばれる人たちのところに通ったり、アロマオイルを使ってみたり、考えずに「一瞬で」自分を変えられる方法を探り始めたわけです。 確かに、いっときは、ネガティブな感情とおさらばできたり、疲れが癒されたような気分にはなるのですが、また気づくといつものパターンに陥っている自分がいました。 それは、仕事のことだったり、人間関係だったり、いろいろです。 何度も何度も同じパターンを繰り返している自分がいる。。。 こういうふうにまた同じ問題で悩み始めそうになると、「開運」とか「引き寄せ」系のセミナーに行って気を紛らせたくなるでしょう。 (このようなセミナーを提供する人も、近頃は随分と増えたような気がします。) あるいは、「自分のやりたいこと」に集中して、悩みや問題にフォーカスしない方法もあります。 私も、これをやってみました。この方法なら、心が折れそうになっても、自分のテンションを保つことはできました。しばらくの間は。でも、やっぱり、出てくるんですよねぇ。 「自分が無意識のうちに繰り返す心のパターン」が。 今まで私たちが頼ってきた「ヒーラー」たちは、この部分には触れようとしませんでした。「天使がこう言っている」とか「何か月後かに運気や心情が変わる」とか。 そんなんじゃ、もう駄目だろう。 開運するにせよ、自分の生きたいように生きるにせよ、自分が創りたい現実を創るにせよ、まず「自分が無意識のうちに繰り返す心のパターン」、これをどうにかするのは必須なんだ!と

私が考えるスピリチュアルとは?

このブログは、「スピリチュアル」をテーマに、私自身が体験した不思議な話、日常の中での小さな奇跡、ヤングリヴイングのアロマオイルの話を綴っています。 とはいえ、私は、「スピリチュアル」の定義を曖昧にしたままこのブログを書いていたことに気づきました。 私は、霊能力や霊視や、予知や占いを「スピリチュアル」だとは思っていません。 そこで言われた通りのことが起きる、つまり「当たる」ことが「スピリチュアル」だとも思っていません。 私自身、いわゆる「ヒーラー」と呼ばれる人たちのところへも行ったことがあります。 カウンセリングやセッションを受けているときは、心が癒えたつもりでも、時間が経つにつれ、また新たな悩みや問題が沸き起こってきて、またそういう人たちのところへ行きたくなるのですね。 やがて気づきました。 これでは、永遠に自分の心の力に頼らずそういった人たちに依存してしまう、と。 さらに悪いことには、それをしている側も自分たちに依存させるように仕向け、コントロールしようとするのだな、と。 そうしてさらに自分の悩みが増えていき。。。という負のループにはまってしまいそうになる自分に。 これは、占いでも同じでしょう。私自身、占いのゴーストライターのようなことをしていたので、より実感しています。 悩みやコンプレックスが多い人、現実を努力なしに一瞬で変えたいという人は、 特に「占い」「ヒーリング」ジプシーになってしまうのではないかと思います。 だから「これを読めば一瞬で運気が変わります」などといったキャッチフレーズに振り回され、書く側も悩みを抱える人のそのような心理を巧みに利用してビジネスをするわけです。 でもでもでも、初めは人の手を借りたとしても、自分の心の力を自分自身で使えるようにならなければ、本当の「スピリチュアル」とは言えないのでは? つまり、私の考える「スピリチュアル」とは、「自分の心の力を自分自身で使えるようになること」なのです。