「趣味は音楽」という日本語は間違っているかな、と思う。
誰でもそれぞれ好きな音楽があって、自分の聴きたい方法で聴くだろうし。
日常生活になじんでしまうものだから。
まあ、「音楽と縁があるんです」というのも、おかしな表現になってしまうのかも。
生まれたときは、歌謡曲黄金時代。言葉を覚え始めるのと同時に、流行り歌を歌っていたらしい。
歌で言葉を覚えたといってもいい。
細川たかしさんの「心のこり」や、石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」、茨城県生まれなのになぜか「東京音頭」。歌詞のない間奏のところも、自分で勝手に言葉をつけて歌っていたらしい。
小学生になると、松田聖子さんや中森明菜さんをはじめ、アイドル時代に突入。
学校では、アイドル雑誌の『明星』と『平凡』が飛び交う。
担任のいないときを見計らって、オルガンの周りに集まり、付録の歌詞集を広げて
クラスメートと歌う日々。
中学に上がれば、ラジオの音楽番組を聴きながら深夜の受験勉強。
お気に入りの歌は、カセットテープにダビングすることも忘れない。
後で友達と、お互いのテープを貸し借りをして、ダビングするのだ。
これが当時の音楽をシェアする方法だった。みんな歌が好きだった
そして!中学2年のときの担任は、英語の先生だったのだが、地元茨城ではちょっとした有名人でもあった。なんと、演歌歌手でもあったのだ!レコードも出していて、ラジオの茨城放送で番組ももっていた。これは、ちょっとした事件だった。
高校生になる頃には、アイドルからバンドブームへ突入。後のTKと呼ばれる小室さんのバンドTMネットワークが台頭したのもこの時期。バービー・ボーイズ、ユニコーン、レベッカ。そして、ガールズバンドの先がけとなるプリンセス・プリンセスも登場!
同時に、カセットテープ、レコードがCDへ切り替わったのもこの時期。
クラスメートには、彼女たちのコピーバンドとして活動している子がいた。茨城のド田舎なのに!
大学受験に失敗した私は、都内にある英語専門の予備校に通うことになるのだが、
そこでも個性的な教師陣と出会った。
英語のテキストを読んでいるはずが、いつのまにか
「あのさー、今週僕のピアノリサイタルがあるから、気分転換に聴きに来てよね」
という話になる。予備校講師をしながら、ピアニスト活動をしている先生だった。
それから時を経て、大学初登校の日。他校の男子学生から2度もロックバンドに誘われたことは、演歌歌手の担任に次ぐショッキングな事件だった。
もっといえば、大学校舎の裏手には大物演歌歌手の御殿が建っていた!
(※20年前に売却され、今はマンションが建っている)
教室の窓から、プール付き豪邸がと見える。絶句…
個性的な先生もいて、漢詩の授業の半分は森高千里さんのコーナーだった。
森高さんのファンだった先生は、毎回好きな歌の詞を分析しては、嬉しそうに話していた。おそらく、面白がって聴いていたのは私ぐらいだったろう。
さらには、「私、子供の頃からプロの歌手として活動しているの」という同窓生があらわれる。
さすが、東京や横浜ってすごいなと、衝撃を受ける。
それが、社会に出てからも続くのだ。
「私、プロの歌手としてライブやってたの。売れなかったけど、CDも出した」
「私のお兄ちゃん、歌手なの。今度ライブがあるので行かない?」
メジャーではなくても、全国どこでも追いかけるファンがたくさんいることに驚いた。
コアな世界があるのだ、と。
この頃は、フラメンコやアルゼンチンタンゴも習っていた。
なので、スペインや南米音楽にもおのずと触れていた。
そうこうしているうちに、妹が音楽活動がしたいと、横浜にやってきて同居することに。
(妹の活動のサポートを7年続けた…あまりにも恥ずかしくて、蓋をしたい過去になってしまった)。
妹と暮らし始めた翌年、音楽関係の仕事に携わっていたという人物と出会う。
(そのときから、10年近く経つ今でも私と妹はその人物からとても助けられている。)
同時期に、妹の職場にやはりプロの歌手ですという、女性があらわれる。
私は一時ボイトレを受けた。
当時は、ふーむとしか思わなかったけれど、振り返ってみるに、(メジャーでないとしても)
「私歌手です」という人物に、人一人の人生の中でそうそう出会うものなのだろうか?
音楽業界に身を置いていないのに。
ここまで書き連ねて何が言いたかったかというと、たえず私の生活には歌や音楽がぴたりと貼りついていた。寄り添っていたというより、貼り付いていたということ。
自分からは求めていないのに、向こうから勝手にやってきて。
この一連の流れの中にいて、何も感じなかった私もバカだ。
世の中はすでに音楽は配信されるのが当たり前になっていた。
YouTubeで視聴できるから、音楽は買わないという人も増えていた。
音楽は、カセットやCDの貸し借りを通してではなく、シェアボタンをクリックするのみになった。
私は、妹の音楽活動のサポートと並行して、映像関係にも片足を突っ込んでいた。
音楽は好きな範囲で続ければよくて、いずれは映画関係の仕事ができたらいいなと
思い始めていた。
そこでまた、驚きの事件が起こる。
Facebookで私を見つけ、映画のプロデューサーだと勘違いした
カナダのロックバンドのボーカリストが、コンタクトをとってきたのだ。
(後で知ったことだが、彼はMyspaceユーザーの間ではちょっとした有名人だった。)
そこから不思議な交流が始まった。
彼とMyspace時代からの付き合いだという人物とも、映像関係者の交流会ですでに出会っていた。
その人物とからあることを依頼されたことがきっかけとなり、
歌謡曲全盛期によく聴いて、大好きだった歌を手がけた人物との出会いが!
去年は去年でFacebookを通してまた事件が起こる。
今度は、オーストラリアのロックミュージシャンがコンタクトをとってきた。
(彼は、レニー・クラヴィッツのプロデューサーとデビューアルバムを作ったと
いう)
なんでもその理由というのが、「タイラクカヨは、ローリング・ストーンズが好きだ」と
FacebookのAIが分析したというから驚きだ。
AIの分析はその程度か…と思いつつも、面白そうだからこの人物とも交流しようと
決めたのだった。
それに、そういえばオーストラリアのロックは、日本には入ってきていない…。
今年に入ってから、私は転職を余儀なくされた。
そこは国際文化交流を目的としたイベントを開催する業務がメイン。
私が配属されてすぐに、これまではなかったという音楽関連のイベントが
立てつづけに入ったという。
これは?とはたと気づいた。
歌は下手で歌えたもんじゃない、妹の音楽活動で自分がつくったものが人の心に届かない、受け入れてもらえない苦しさを味わった。
音楽のプロデューサーになれるほどの才能があるわけでもない。でも、世界の音楽に触れる機会は人より多いのではないか?カセット、レコード→CD→配信となっても、歌と音楽は相変わらず私をめがけてやってくる。。映画からCMからFacebookのつながりから、アジアのイベントから。昔習っていた踊りを通して。人との出会いを通してまでも!
ならば、紹介する側にまわればいい!
こんなに人との出会いがあっても、音楽を一緒に手がけたわけではまったくない。
ただたくさん出会っていたというだけ。出会ってきた人たちを、ただの通すがりの人に
していただけ。それはあまりにも、もったいない。
それに加えて、私は10代にしか聴こえない周波数の音が、40過ぎた今でもはっきりと聴こえる。
つまり、一生思春期!このとても才能とはいいがたい特異体質を生かすしかない!
自分自身をPRするのは苦手でも、他人を宣伝するのはわりと上手いみたいだし。
これが、World Music Hoppingをスタートさせた理由というか背景です。
World Music Hopping
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