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6月, 2016の投稿を表示しています

身体の歪みはココロのゆがみ

スピ系カウンセラーからの紹介で、何年か前まである整体師のところに通っていました。   自分の腕ではなく機械を使用し、通わせるためにあれこれ嘘をつく整体師が多いなか、彼は本物でした。     ただし、はじめは人格否定から始まります。     彼の診療所には、入り口はもちろん、あちこちに段差がしかけられ、 クライアントの入店から無言のまま診断を開始。     歩き方や関節の動きぐあいをみて、診療にきた人物のクセになっているココロの偏りを見抜き、相手が誰であろうと、徹底的に批判するのです。     そもそも身体の歪みは、「性格やココロの偏りが原因になっているから」というのが、 彼の考え。     それなので、どんなに通ってきても、本人がそれを自覚しない限り、「また元にもどってしまう」のだそう。   もうひとつの原因は、彼いわく、「運動不足」なんだとか。   「人間の身体は動かすようにできている。動かなければ、身体はどんどん歪む」。     さらに彼の言うことには、「身体がある以上、人間に感情があって当たり前。無理に抑えると、それだけでも身体は歪む」。     さて、私もそんな彼の洗礼をうけました。   「他人を受け入れないその態度を改めろ!」   「人から言われた言葉を受け流すな!一度は身体で受け止めろ!」   「自分でももっと運動しろ!俺を頼るな!」   そして私へのお説教はまだまだ続きました。     こんなふうに・・・     「俺が動かそうとしているところを先読みして、自分で勝手に動かすな! 人に任せることを少しは覚えろ!それは人を信用していないからだ! あんたの問題はそこだ!」     「そのつもりはなく、無意識に出ちゃうんだと思います。自分ではコントロールできません」と言い返せば、     「なんでも無意識のせいにするな!無意識にやっている自分のクセを知れ!」     そして、彼の言葉の中で一番強く印象に残っているのは、     「犯罪者であったとしても、その息子にとってはよき父親で愛すべき存在なのだ」     「このことが

霊能者の透視が外れるのはなぜか?

スピリチュアル好きの私は、霊能者、「視える」と言われる人物のところへ足をはこんだことがあります。 どの人もまあ外れてはいないかな・・・という程度で、中にはまったく「視えていない」人もいました。 とはいえ、わたしのことは視えなくても、ほかの人のことは言い当てている場合もあり。。。 当てられる人と、当てられない人がいるのはなぜなのか? ずっと不思議でした。 でも、あるとき海外のサイキッカーの話を聞いて納得しました。 「霊性が自分と同じレベルにある霊能者でないと、視えない」そうです。 霊能者でもその霊性の階層によって、視える層と視えない層がある、とのこと。 だから、霊能者よりも自分のほうが霊性が高ければ、当然その霊能者は言い当てられないのだとか。 「キツネや霊が憑いている」という霊能者は、低い層しか視えないので霊性が低い、とも言っていました。 わたしが思うに、悪霊に憑かれるのはネガティブな人。 憑かれるというか、そのマイナスの想念のかたまりが、 キツネや悪霊のかたちとなって、そういうふうに見えるだけなのでは? ネガティブな考え方をやめれば、たとえそれまで霊が憑いていたとしても、おのずと消えていなくなるだろう、と考えます。 だから、霊能者という人のところへ行って「あなたはとり憑かれている」と言われても、 驚く必要はないし、お払いをする必要はないと思います。 し、またそういう霊能者は怪しいと思って間違いないです。 なぜなら、お払いしてもらっても、しばらくするとその人はまた「憑いているのでお払いしましょう」と 言いますから。 わたしの場合は、どんなに当たると言われている霊能者の予知でも、その通りになったことは、まずありません。 たぶん、自分で解かなければならない問題を、ほかの誰かから先に答えを教えてもらっては、ダメなのでしょう。それではいつまでたっても、課題がクリアされたことにはならないから。 まあ、これも一つの考え方にすぎませんが。 占いは好きです。でも、わたし自身ピタリと当てられたら、つまらない。。という気持ちもあります。 母も占い好きでいろんなところへ行っていたようでしたが、 ある占い師にわたしのことを視てもらったところ、こう言われたそうです。 「娘さんは、占いに左右されない

「大天使ミカエルにお願い!」の、その前に。

天使好きの人なら、もう読んでいるかもしれませんね。 おなじみドリーン・バーチューのこの本には、ミカエルに助けてもらった人々の実話と、 ミカエルとつながるための瞑想方法について書かれています。 大天使ミカエルは、助けを求める人には必ず救いの手を差し伸べてくれる、と言われてます。 事故に遭いそうになったとき、人間関係に悩んでいるとき、あるいは経済的な問題を抱えているとき・・・などなど あらゆることから救い出してくれるとか。 わたし自身も、何度も助けてもらっています。 心の中で名前を呼んで、頼むだけで、いいんです。 姿は見えなくても、つながっているという感覚が得られなくても、 本当に聞いてくれるようです。 わたしの場合は、経済的ピンチのとき。 タイムラグはあっても、彼のはからいだな、とすぐにわかりました。 また、最近では「サイキックアタック」から助けてくれました。 解雇、というかたちでですが。 この「サイキックアタック」とは、なぜか他人から八つ当たりされたり、仕事や、身に覚えのない責任を押し付けられたり、といったことです。 振り返ってみると、わたしには昔からよくありました。 実はこの本を買う前に、「大天使ミカエルのアチューンメント」というセッションを受けていました。 受けた直後は力がみなぎった感覚になる、のはなるのですが、 日常生活に戻ると、薄れていきます。 言われたとおりに、毎日練習を重ねるものの、状況はひどくなる一方だったんです。 そこで、セッションの伝授者に尋ねたところ、 「被害者意識が前提にあると、お願いは困窮からのものになり、その状況が強化される」 「自分には力は備わっていて、常に守られるべきだ。という前提からなら、お願いは依頼となり、通る」 ということらしい。 それならば!「サイキックアタック」という言葉は、被害者意識からきているものだから 言ってはNGですよね。 常に内面の状況が外の現実に表れるならば、ミカエルのアチューンメントをしても、 瞑想をしてお願いをしても、無駄ってことなりますよね。理屈では。 自分がどんな思いや考えを前提にしているか、そこから始まらないと こういうセッションはいくらやっても効果がない、といえます。 でも、セッションや瞑想